優しくできなかったら・・・・
平成24年12月19日
嘉島町役場


 おはようございます。
 嘉島町に来ますと、我が家に帰ったような感じがします。かって、嘉島西小学校に7年間勤務していました。本日もその時の保護者の方が数人お見えです。2年ほど前にも人権問題についてお話をさせていただきました。つたない話にもかかわらず、みなさん熱心にお聞きいただきました。このようなことから本日、皆さんと一緒に人権問題について考えることができることを楽しみにしていました。これから約1時間半、皆さんと一緒に人権問題について考えていきたいと思います。よろしくお願いします。
 益城町が学校支援活動優秀団体として文科省から表彰を受けることとなり、12月3日、その授賞式に行ってきました。その席で、受賞者を代表して岩手県釜石市の釜石小学校の校長先生が謝辞を述べられました。謝辞の中で、3、11の大震災のときのことに触れ、「津波てんでんこ」の話をされました。「ここまで津波は来ない」と津波から逃げることなど考えてもいなかった地域の人たちを、子どもたちが「逃げねば危ない」と必死に説き伏せ、一緒に逃げたという旨の話がありました。子どもたちの優しさ、そして、それに応えた地域の人たちの優しさですよね。そして、家でも地域でも自分が大事にされていると実感しているからこそ他を信じ、他も大事にしなければとの思いがあったからですよね。
 人間だれもがかけがえのない大切な存在です。多くの研究結果から、自分が大事にされていると感じられるほど、他の人も大事にできることが分かっています。このことを、聞き慣れない言葉かもしれませんが「自尊感情」といいます。「自分のことが好き。自分が生きていることは意味がある。自分は役に立っている」こんな風に思える感情です。
 「自分が好き、あなたも好き」という感情は言い換えれば優しさです。人は誰もが優しさを持っています。
 皆さん、以前読んだことがあるでしょう。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を。大罪人の犍陀多がたった一度、蜘蛛を助けた事がありましたね。このことを御釈迦様が覚えていらっしゃって、地獄にいる犍陀多を助けようとして蜘蛛の糸を垂らすという話ですね。長い文ではありませんので、読んでみますね。


              蜘蛛の糸
     一

 或日のことでございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、獨りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のやうにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございませう。
 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽ってゐる蓮の葉の間から、ふと下の様子を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に當って居りますから、水晶のやうな水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡をみるやうに、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、犍陀多と云ふ男が一人、外の罪人と一しょに蠢いてゐる姿が、御眼に止まりました。この犍陀多と云ふ男は、人を殺したり家に火を付けたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覺えがございます。と申しますのは、或時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を擧げて、踏み殺さうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違ひない。その命を無闇にとると云ふ事は、いくら何でも可愛さうだ。」と、かう急に思ひ返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 御釈迦様は地獄の様子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思ひ出しになりました。さうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救ひ出してやらうと御考へになりました。幸、側を見ますと、翡翠のやうな色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のやうな白蓮の間から、遙か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下ろしなさいました。

     二

 こちらは地獄の底の血の池で、外の罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしてゐた犍陀多でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上がってゐるものがあると思ひますと、それは恐ろしい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のやうにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、唯罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちて来る程の人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣聲を出す力さへなくなってゐるのでございませう。ですからさすが大泥棒の犍陀多も、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のやうに唯もがいてばかり居りました。
 所が或時の事でございます。何氣なく犍陀多が頭を擧げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるやうに、一すぢ細く光ながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思はず手を拍って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さへも出来ませう。さうすれば、もう針の山へ追ひ上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
 かう思ひましたから犍陀多は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥棒の事でございますから、かう云ふ事には昔から、慣れ切ってゐるのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何萬里となくございますから、いくら焦って見た所で、容易に上へは出られません。稍しばらくのぼる中に、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまひました。そこで仕方がございませんから、先一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下がりながら、遙かに目の下を見下ろしました。
 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さつきまで自分がゐた血の池は、今ではもう暗の底に何時の間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光ってゐる恐ろしい針の山も、足の下になってしまひました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない聲で、「しめた。しめた。」と笑ひました。所がふと氣がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のやうに、やはり上へ上へ一心によぢのぼって来るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐ろしいのとで、暫くは唯、莫迦のやうに大きな口を開いた儘、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさへ斷れさうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ませう。もし萬一途中で斷れたと致しましたら、折角ここまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落としに落ちてしまはなければなりません。そんな事があったら、大變でございます。が、さう云ふ中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這ひ上がって、細く光ってゐる蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに斷れてしまふのに違ひありません。
 そこで犍陀多は大きな聲を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一體誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下がってゐる所から、ふつりと音を立てて斷れました。ですから、犍陀多もたまりません。あっと云ふ間もなく風を切って獨楽のやうにくるくるまはりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまひました。
 後には唯極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れてゐるばかりでございます。

      三

 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をぢっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のやうに沈んでしまひますと、悲しさうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、さうしてその心相當な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御眼から見ると、浅間しく思召されたのでございませう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のやうな白い花は、御釈迦様の御足のまはりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云へない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございませう。

 どうですか。
 犍陀多は自分が持っている優しさを肝心なところで出すことができなくて、地獄へ堕ちてしまいました。
 次のような話を聞いたことがあります。
 「“優しい”という漢字は、“にんべん”に“憂い”と書くけれど、“憂い”の横に“にんべん”がある。つまり、憂いのある人の横に、人が寄り添うことを“優しさ”という。また、“憂い”という漢字は、百と愛に見える。憂いのある人には、百の愛が必要だ。だから“優しい”という字は、人には百の愛があると書く。人は優しい風に吹かれて、温かくなっていく。」と。
 資料に付けています「一冊のノート」を読んでみましょう。


     「一冊のノート」     北鹿渡 文照

 「おにいちゃん、おばあちゃんのことだけど、このごろかなり物忘れが激しくなったとおもわない。ぼくに、何度も同じことを聞くんだよ。」
 「うん、今までのおばあちゃんとは別人のように見えるよ。いつも自分の眼鏡や財布を探しているし、自分が思い違いをしているのに、自分のせいではないと我を張るようになった。おばあちゃんのことでは、おかあさん、かなりまいっているみたいだよ。」
 弟の隆とそんな会話を交わした翌朝の出来事であった。
 「お母さん、ぼくの数学の問題集、どこかで見なかった。」
 「おかしいな、一昨日この部屋で勉強したあと、確かにテレビの上に置いといたのになあ。」
 学校へ出かける時間が迫っていたので、ぼくはだんだんいらいらして、祖母に言った。
 「おばあちゃん、また、どこかへ片づけてしまったんじゃないの。」
 「私は何もしていませんよ。」
 そう答えながらも、祖母は部屋のあちこちを探していた。母も隆も問題集を探し始めた。
 しばらくして、隆は隣の部屋から誇らしげに問題集をもってきた。
 「あったよ、あったよ、押し入れの中の新聞入れに昨日の新聞と、一緒に入っていたよ。」
 「やっぱり、おばあちゃんのせいじゃないか。」
 「どうして、いつもわたしのせいにするの。」
 祖母は、責任が自分に押しつけられたので、さも、不安そうに答えた。
 「そうよ、なんでもおばあちゃんのせいにするのはよくないわ。」
 母が、ぼくをたしなめるように言った。ぼくは、むっとして声を荒げて言い返した。
 「何言っているんだよ。昨日、この部屋を掃除してたのはおばあちゃんじゃないか。新聞と一緒に問題集も押し入れに片づけたんだろう。もっと考えてくれよな。」
 「そうだよ。おにいちゃんの言うとおりだよ。この前、ぼくの帽子がなくなったのも、おばあちゃんのせいだったじゃないか。」
 「しっかりしてよ、おばあちゃん。近ごろ、だいぶぼけてるよ。ぼくら迷惑してるんだ。今も隆が問題集を見つけなかったら、遅刻してしまうところじゃないか。」
 いつも被害にあっているぼくと隆は、いっせいに祖母を非難した。祖母は悲しそうな顔をして、ぼくと隆を玄関まで見送った。
 学校から帰ると、祖母は小さな机に向かって何かを書き込んでいた。ぼくには、そのときの祖母のさびしそうな姿が、なぜかいつまでも目に焼き付いて離れなかった。
 祖母は、若いころ夫を病気で亡くした。その後、女手一つで4人の息子を育て上げるかたわら、児童民生委員や婦人会の係を引き受けるなど地域の活動にも積極的に携わってきた。そんなしっかりものの祖母の物忘れが目立つようになったのは、65歳を過ぎたここ1・2年のことである。祖母は、自分は決して物忘れなどしていないと言い張り、家族との間で衝突が絶えなくなった。それでも若い頃の記憶だけはしっかりしており、思い出話を何度もぼくたちに聞かせてくれた。このときばかりは、自分が子どもに返ったように目を輝かせて話をした。両親が共稼ぎであったことから、ぼくたち兄弟は幼いころから祖母に身の回りの世話をしてもらっており、今でも何かと祖母に頼ることが多かった。
 ある日、部活動が終わって、ぼくは友だちと話しながら学校を出た。途中の薬局の前で、友だちの一人が突然指さした。
 「おい、みろよ。あのおばあさん、ちょっとおかしいんじゃないか。」
 「ほんとうだ。なんだよ。あの変てこりんな格好は。」
 指さす方を見ると、それは季節はずれの服装にエプロンをかけ、古くて大きな買い物かごを持った祖母の姿であった。確かに友だちが言うとおり、その姿は何となくみすぼらしく異様であった。ぼくは、あわてて祖母から目を離すとあたりを見回した。道路の向かい側で、二人の主婦が笑いながら立ち話をしていた。ぼくには、二人が祖母のうわさ話をしているように見えた。
 祖母は、すれちがうとき、ほほえみながら何か話しかけた。しかし、ぼくは友だちに気づかれないように、知らん顔をして通り過ぎた。友だちと別れた後、ぼくは急いで家に帰り、祖母の帰りを待った。
 「ただいま。」
 祖母の声を聞くと同時に、ぼくは玄関へ飛び出した。祖母は、大きな買い物かごを腕にぶら下げて、汗を拭きながら入ってきた。
 「ああ、暑かった。さっき途中であった二人は・・・・。」
 「おばあちゃん。なんだよ、その変な格好は。何のためにふらふら外を出歩いているんだよ。」
 ぼくは、問い詰めるような厳しい口調で祖母の話をさえぎった。
 「何をそんなに怒っているの。買い物に行ってきたことぐらい見れば分かるでしょ。私が行かなかったらだれがするの。」
 「そんなこと言っているんじゃない。みんながおばあさんのことを笑っているよ。かっこ悪いじゃないか。」
 「そうして、みんなで私をバカにしなさい。いったいどこがおかしいって言うの。だれだって年をとればしわもできれば白髪頭になってしまうものよ。」
 祖母のことばは、怒りと悲しみでふるえていた。
 「そうじゃないんだ。だいたいこんな古ぼけた買い物かごを持って歩かないでくれよ。」
 ぼくは腹立ちまぎれに祖母の手から買い物かごをひったくった。
 「どうしたの。大きな声を出して。おばあちゃん、ぼくが頼んだものちゃんと買ってきてくれた。」
 「はい、はい。買ってきましたよ。」
 隆は、買い物かごをぼくから受け取ると、さっそく中身を点検し始めた。
 「おばあちゃん、きずばんと軍手が入っていないよ。」
 「そんなの書いてあったかなあ。えーと、ちょっと待ってね。」
 祖母は、あちこちのポケットに手を突っ込みながら1枚の紙切れを探し出した。見ると、それは隆が明日からの宿泊合宿のために祖母に頼んだ買い物リストであった。買い忘れがないように、祖母の手で何度も鉛筆でチェックされていた。
 「やっぱり、きずばんも軍手も、書いてありませんよ。」
 「それとは別に、今朝、買っておいてくれるように頼んだだろう。」
 「そんなこと、私は聞いていませんよ。絶対聞いていません。」
 「あのね、おばあちゃん・・・・。」
 隆は、今にもかみつくような顔で祖母をにらんだ。
 「もうやめろよ。おばあちゃんは忘れてしまったんだから。」
 「なんだよ、おにいちゃんだって、さっきまで、おばあちゃんに大きな声を出していたくせに。」
 ぼくは不服そうな隆を誘って買い物に出かけた。道すがら、隆は何度も祖母の文句を言った。
 その晩、祖母が休んでから、ぼくは今日のできごとを父に話し、なんとかならないかと訴えた。父は、ぼくと隆に、先日、祖母を病院に連れて行ったときのことを話し出した。
 「お前たちが言うように、おばあちゃんの記憶は相当弱くなっている。しかし、お医者さんの話では、残念ながら現在の医学では治すことはできないんだそうだ。これからもっとひどくなっていくことも考えておかなければならないよ。おばあちゃんは、おばあちゃんなりに一生懸命やってくれているんだからみんなで温かく見守ってあげることが大切だと思うよ。今までのように、何でもおばあちゃんに任せっきりにしないで、自分でできることぐらいは自分でするようにしないといけないね。」
 「それはぼくたちもよく分かっているよ。だけど・・・。」
 これまでの祖母のことを考えると、ぼくはそれ以上何も言えなくなった。
 その後も、祖母はじっとしていることなく家の内外の掃除や片づけに動き回った。そして、ものがなくなる回数はますます頻繁になった。
 ある日、友だちからの電話を受けた祖母が、伝言を忘れたため、ぼくは友だちとの約束を破ってしまった。父に話したあと怒らないようにしていたぼくも、このときばかりは激しく祖母をののしった。
 それから1週間あまりすぎたある日。捜しものをしていたぼくは引き出しの中の一冊の手あかに汚れたノートを見つけた。何だろうと開けてみると・・・
 それは、祖母が少しふるえた筆致で、日ごろ感じたことなどを日記風に書き綴ったものであった。見てはいけないと思いながら、つい引き込まれてしまった。最初のページは、物忘れが目立ち始めた2年程前の日付になっていた。そこには、自分でも記憶がどうにもならないもどかしさや、これから先どうなるのかという不安などが、切々と書き込まれていた。普段の活動的な姿からは想像できないものであった。しかし、そのような苦悩の中にも、家族と共に幸せな日々を過ごせることへの感謝の気持ちが行間にあふれていた。
 「おむつを取り替えていた孫が、今では立派な中学生になりました。孫が成長した分だけ、私は歳をとりました。記憶もだんだん弱くなってしまい、今朝も孫に叱られてしまいました。自分では気付いていないけれど、ほかにも迷惑をかけているのだろうか。自分では一生懸命やっているつもりなのに・・・・あと10年、いや、せめてあと5年、なんとか孫たちの面倒をみなければ。まだまだ老け込む訳にはいかないぞ。しっかりしろ。しっかりしろ。ばあさんや。」
 それから先は、ペ-ジを繰るごとに少しずつ字が乱れてきて、判読もできなくなってしまった。最後の空白のページに、ぽつんとにじんだインクのあとを見たとき、ぼくはもういたたまれなくなって、外に出た。
 庭の片隅でかがみ込んで草取りをしている祖母の姿が目に入った。夕焼けの光の中で、祖母の背中は幾分小さくなったように見えた。ぼくはだまって祖母と並んで草取りを始めた。
 「おばあちゃん、きれいになったね。」
 祖母は、にっこりとうなずいた。
                                       (文部省道徳教育推進指導資料集第4集 平成6年3月)

 いかがですか。
 この資料を題材にした道徳の授業を参観した方の話です。
 「一人の男子生徒が、読み終わると泣いていた。ワークシートの上に涙がぼろぼろ落ちた。それを必死で袖でぬぐっている様子を見た私も涙が止まらなくなった。隣の女子生徒の目にも涙がいっぱい浮かんでいた。結局この子は、ワークシートには何も書くことはできなかった。先生はこの子をどう評価するのだろうと、担任の先生に尋ねると、先生は「ここに涙のあとがあります。何かを書いたのより彼の気持ちが分かります」とおっしゃった。」
 この話をこれまでいくつかの人権問題研修会で話しました。どこの会場でも、ハンカチで目頭を押さえる方がいました。この会場にも幾人もの方が目頭を押さえていらっしゃいます。おばあさんの心情に共感したり、自分の家族や知り合いと重なってのことかもしれません。私はこれが優しさだと思います。
 毎日の生活の中で自分にできる優しさを行動に移していけたらいいなと思います。「一度きりのお子様ランチ」を読んでみます。自分にできる優しさとはを考えながら一緒に読んで下さい。


            一度きりのお子様ランチ

 ある日、若い夫婦が二人でレストランに入りました。
 店員はその夫婦を二人がけのテーブルに案内し、メニューを渡しました。
 「Aセット一つと、Bセット一つ。」
 店員が注文を聞きその場を離れようとしたその時、夫婦はしばし顔を見合わせ、「それとお子様ランチを一つ頂けますか?」と言いました。
 店員は驚きました。なぜなら、そのレストランの規則で、お子様ランチを提供できるのは小学生までと決まっているからです。
 店員は、「お客様、誠に申し訳ございませんが、お子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文はいただけないのですが...」と丁重に断りました。
 すると、その夫婦はとても悲しそうな顔をしたので、店員は事情を聞いてみました。
 「実は…」と女性が話し始めました。
 「今日は、天国へ旅立った私たちの娘の誕生日なんです。私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。娘が私のおなかの中にいる時に『三人でこのレストランでお子様ランチを食べようね』って話していたんですが、それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっと落ち着いて、亡き娘にここの遊園地を見せて、三人で食事をしようと思ったものですから…」
店員は話を聞き終えた後、少し何かを考えていた様子でしたが「かしこまりました。」と答えました。
 そして、その夫婦を二人掛けのテーブルから、四人掛けの広いテーブルに案内しました。さらに、「お子様はこちらに」と、夫婦の間に子ども用のイスを用意しました。
 しばらくして、「お客様、大変お待たせいたしました。ご注文のお子様ランチをお持ちいたしました。では、ゆっくりと食事をお楽しみください。」
店員は笑顔でそう言ってその場を去りました。
 この夫婦から後日届いた感謝の手紙にはこう書かれていました。
 「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているように、家族の団らんを味わいました。こんな体験をさせて頂くとは、夢にも思っていませんでした。もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」

 いかがですか?この話は実話です。東京ディズニーランド内のレストランでの出来事です。東京ディズニーランドは、アメリカのディズニーランドをまねて造ったものですね。ディズニーランドの生みの親 ウォルトディズニーは、人々に夢と希望と幸せを与えようとの思いからディズニーランドを造ったといわれています。このレストランの店員さんがとった行動はまさに夢と希望、それも若い夫婦に生きる希望を与えましたね。「この子の妹か弟を連れて行きます」の言葉でそれが分かります。
 私たちも自分が持っている優しさで周りの人に夢と希望、そして幸せを実感させたいものです。
 この優しさは、頭では分かっていても実行に移すのは案外難しいものです。自分の気持ちをわかりやすく相手に伝え、わかり合うようにすることを考えてみましょう。自分の気持ちを素直に伝えたつもりでも、思っていたことがうまく伝わらなかったり、結果的に相手に嫌な思いをさせてしまうことがあります。ワークシートに示しています夫婦の会話を読んでみます。


夫婦の会話1

 夫「うわっ、もう7時だ。なんで、もっと早く起こさないんだ!」
 妻「何でそんな大声出すのよ。いつも通り7時に起こしたじゃない。」
 夫「6時半に起こしてくれって、言ったじゃないか。」
 妻「そんなこと、聞いてないわよ。」
 夫「確かに言ったよ。おまえがちゃんと聞いていなかったんじゃないか。」
 妻「ぜーったい聞いてないわよ。」
 夫「いいよ、もう。すぐ出ないと遅れるから。」
 妻「どうぞ、ご勝手に」

夫婦の会話2

 夫「しまった!寝過ごした。昨日、6時半に起こしてくれって頼まなかったっけ?」         
 妻「早く行きたかったのね。でも私知らなかったから・・・。どうしましょう。」
 夫「急がなくっちゃ、遅刻しちゃう。困ったなあ。」
 妻「まだ7時なんだから、急いで準備しましょうよ。」
 夫「そうだね、出かけられるように、手伝ってくれないか。」
 妻「OK、いいわよ。」

 朝起きが遅れて約束の時間に遅れそうになった夫婦の会話です。会話1と会話2は、何が違うのでしょうか。自己中心的にものごとを考えていると「1」のような会話になりますね。夫婦といえども相手のことを考えての会話が大事ですね。相手を突き放すような言い方ではなく、相手から協力してもらえるような話し方を心掛けたいものです。
 今日は、12月19日です。そろそろ正月用の餅をつく頃ですね。私の家では、今も一家総出で杵と臼で餅つきをします。私の家では、30日につきます。
 皆さんの家では、いつ餅つきをしますか?(「29日には搗かない」の声あり)
 お尋ねします。29日には餅はつかないというところ?(ほとんど挙手)
 29日につくというところ?(挙手無し)
 いつと限らずその年によって違うというところ?(挙手無し)
 どうして29日に餅つきしないのですか?(「29日の9を苦と語呂合わせで読み、苦を搗き込むからこの日に餅は搗かないという言い伝えがある」の声あり)
 私の近所でも、9を苦と語呂合わせして、餅に苦をつき込み1年中苦労するから29日には餅つきするなといいます。
 ところが29日に餅つきするところがあるのですよ。福岡県糟屋郡では、この日に餅つきをするそうです。どうしてと思いますか?(「29を「フク」と読み、幸福の「福」をつき込むの考えから29日餅つきする」の声あり)
 そうですね。29を「フク」と語呂合わせして、福をつき込む29日に餅つきするそうです。地域によって、こうもとらえ方が違うのです。
 数をどう読むかで、この日はよい日、悪い日と考えるのは何ともおかしなことですよね。
 みなさんはカラスについてプラスイメージを持っておられますか?マイナスイメージを持っておられますか?(「よか思いは持っとらん」の声が聞こえる)
 マイナスイメージをお持ちの方が多いようですね。今朝、田んぼにたくさんのカラスが舞い降りて、えさをつついていました。幼少の頃、このような光景を見ると「今日はカラスの多か。縁起が悪かばい」などと言っていました。なぜ、カラスについて人はマイナスイメージを持っているのでしょうか?(「黒は縁起の悪いの考えがある」との声有り)
 ところが、皆さん小さい頃歌ったことがおありと思います「七つの子」を作詩した野口雨情は、このカラスを題材にしました。
 歌詞を見てみます。
 「カラス なぜ啼くの カラスは山に 可愛い七つの 子があるからよ 可愛い 可愛いと カラスは啼くの 可愛い 可愛いと 啼くんだよ 山の古巣に いって見て御覧 丸い眼をした いい子だよ」
 雨情はなぜ詩の題材として、カラスという鳥を選んだのでしょうか。黒い鳥であるカラスが鳴くと、不吉な事が起きるという古来からの迷信があり、そのためカラスは“不吉な鳥”として嫌われてきました。そのカラスの鳴き声を、子煩悩な親鳥の呼び声として表現したものです。大正10年のことです。雨情は、黒いカラスは不吉な鳥と決めつけることのおかしさを人々に訴えたのだと思います。
 先日、県立盲学校の生徒さんにもこの話をしました。生徒さんもカラスを不吉な鳥と決めつけることのおかしさに気づいたようでした。この「おかしさを皆に伝えるために七つの子を歌いましょうか」と語りかけると、「歌いましょう」と返ってきました。みんなで声に出して歌いました。校長先生から、「人権学習の会場から歌声が聞こえてきたのでびっくりしましたが、雨情の心に迫ることができたことでしょう」という言葉を頂きました。
 皆さん、雨情の心情に迫りながら一緒に歌いましょうか?
 では、一緒にどうぞ。
 ♫ カラス なぜ啼くの カラスは山に 可愛い七つの 子があるからよ 可愛い 可愛いと カラスは啼くの 可愛い 可愛いと 啼くんだよ 山の古巣に いって見て御覧 丸い眼をした いい子だよ ♫
 ありがとうございました。
 2年前、私は妻とウズベキスタンへ旅行しました。中央アジアの国、ウズベキスタンは、緑あり、砂漠あり、歴史遺産あり、暮らしている人々の優しさありとそれは素晴らしい国でした。旅の最終日、バスの中で日本語ガイドのマリカさんが私たちにこう尋ねました。「みなさんの中で、ウズベキスタンに行くと言ったら『あんな危ない国には行かない方がいいよ』と知り合いの人などから言われた人はいませんか?ウズベキスタンにやってきてどうでしたか?危険な国と思いますか?」と。
 実は、知人どころか私自身が「ウズベキスタン 青の都サマルカンドを旅するツアーに参加しよう」という妻に「危険地域だからウズベキスタン旅行は止めよう」と言っていたのです。ウズベキスタンの隣国はアフガニスタンです。外務省が出している外国の治安情報ではアフガニスタンの国境周辺は「渡航の是非を検討して下さい」です。それ以外も「十分注意して下さい」です。でも、妻は「どうしても行きたい」と言います。それで、治安について旅行会社に問い合わせました。「危険な箇所には立ち寄りませんので問題ありません」という返事です。外務省にも問い合わせました。外務省からは、「個人旅行ですか?ツアーでの旅行ですか?外務省では、個人旅行する人も含めて治安情報を出しています。旅行会社のツアーだったら心配ないでしょう」とのことでした。
 行ってびっくりでした。私たちが訪問した、タシュケント、ブハラ、サマルカンドの都市は穏やかで、人々はとても明るく、治安の心配などみじんもないところでした。ある一つの情報をそのまま信じて「○○は○○だ」と思い込むことのおかしさを実感しました。
 また、マリカさんはウズベキスタンの大学で日本語を学び、法政大学に留学して日本語を学んだと言いました。そして、日本の旅行も楽んだそうです。東京をはじめ鎌倉や奈良、大阪、京都を訪れたが一番印象に残っているのは京都と話しました。金閣寺や銀閣寺はとてもすばらしかったが、最も心を動かされたのは竜安寺の石庭だったと言いました。竜安寺の石庭を見つめていると、心が癒されたと言いました。この竜安寺の石庭を造ったのは、被差別部落の人だと言われています。銀閣寺も被差別部落の人の手によるものだと言われています。室町時代、能を創りあげた観阿弥、世阿弥も被差別部落の人だと言われています。江戸時代、前野良沢、杉田玄白と日本で最初の解剖をした人も被差別部落の人だと言われています。また、死んだ牛馬の処理を通して日本の皮革産業を起こしたのも被差別部落の人々です。このように被差別部落の人々が日本の文化や産業面で果たした功績は大きいのです。
 皆さん、レジュメのあいているところに魚の絵を描いてみてください。(各自魚の絵を描く)
 (一人の方にホワイトボードに描いてもらう)○○さん、とても素晴らしい魚の絵を描いていただきありがとうございました。
 お尋ねします。○○さんと同じように左向きの魚を描かれた方、手を挙げてください。(ほとんどが挙手)
 右向きの魚を描かれた方?(挙手無し)
 ありがとうございます。
 皆さん、考えてください。私は魚の絵を描いてくださいと言いました。左向きの魚を描いてくださいとも右向きはだめですよとも言いませんでしたが、ほとんどの方が左向きの魚を描かれました。どうしてこんなことが起きるのでしょう?(「料理で、魚は皿の上に左向きにする」との声が上がる)
 そうですよね。料理では、魚は左向きに出します。5月の鯉のぼりの絵や写真はどちらを向いていますか?(「左」の声あり)
 そうですね。ほとんどが左を向いています。図書館にある魚の図鑑の絵や写真の7割から8割は左向きです。私たちは、常に左を向いている魚の絵や写真、料理の魚に接して、「魚の絵=左向き」を空気を吸うが如く無意識のうちに学習しているのです。このようなことを刷り込みといいますいつの間にか、「魚は左向き」と思い込んでしまっているのですね。この刷り込みが、思い込みとなり、これにマイナスイメージが加わると偏見となり、差別意識が生まれるのです。ですから、「○○=○○」と固定的に考えることではなく、「そうかな?」と一度立ち止まって考えることが大切です。

 皆さんの中で、「今日は人権教育研修会がある。何の日だろう?」と、今日は何の日か調べて来られた方いますか?(挙手無し)
 普段は、今日は何の日など気にしませんよね。ところが「結婚式は大安がよかばい」とか「葬式は友引の日はいかんばい」など結婚式や葬式となると「今日は何の日」となります。普段は、何の意識もしないのに何かの時、意識するのが六曜です。
 この六曜についてどう思いますか。
 仏滅の日に結婚式を挙げると必ず離婚するとか、大安の日では共に白髪の生えるまで終生添い遂げるなどが約束されているのであれば、人は大安の日に結婚式を挙げ、仏滅は避けますよね。しかし、大安の日の結婚式でも離婚する夫婦がいます。仏滅の日の結婚式で添い遂げる夫婦もいます。
 それなのに「結婚式は大安の日」、「葬儀は友引の日は避ける」などと考えるのはおかしな事ですよね。
 みなさん、この六曜、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口はどのようにして決めるかご存じですか?

 昔の日本には週はなく、上旬、中旬、下旬と10日を単位として暮らしていました。これでは1日単位の表現が不自由です。そこで、6日を1周とした周期を作りました。それが先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口です。これは、足利時代の末期に中国から伝わった時刻の名前を日に転用したものです。その時、陰暦の1月1日と7月1日を先勝、2月1日と8月1日を友引、3月1日と9月1日を先負、4月1日と10月1日を仏滅、5月1日と11月1日を大安、そして6月1日と12月1日を赤口と機械的に暦に入れていったのです。ですから、月によっては六曜が途中で終わったり、ときには大安が2日続くという場合も出てくるのです。暦を調べてみますと大安が2日続くことはここ数年はありません。しかし、機械的に当てはめるのですからそんなことも起こります。
 熊本市の仏願寺住職であった故高千穂正史さんは、その著書「愛語問答」で「ただ機械的に暦に記入された文字を見て、知性を持った現代の人間が、日が良いとか悪いとか言って心配しているのは、何とも滑稽なことだ」と述べています。
 「自分は差別していないが、世間が・・・」という言い方は、部落差別を始めさまざまな差別の際に、口にされてきました。「六曜は迷信であり、迷信などにしばられることのない生き方をしていこう」と、一人一人の意識が変わることによって、世間の常識は変わっていくものです。迷信に頼る生き方ではなく、事実を知る生き方をしていくことが大切です。そのとき、世間体や偏見にしばられて生きるおかしさに気づくことができると思います。「そんなことにいつまでこだわっているの」と言えるよう、私たちの意識を高めていこうではありませんか。
 ワークシート「これからどうしていくことがよいでしょう?」をご覧下さい。
 公民館講座の休憩時間に、5人の仲間が一つのテーブルの周りでお茶を飲んでいます。
 しばらくして、Cさんが誰にともなく、こんなことを話し始めました。
 ああ、悩んじゃうわ。30歳になる私の息子にやっと結婚したい人ができたらしいのよ。「どんな人かな」と思って、息子に「その女性のこと調べた?」と話したら、「今時そんなことをするなんておかしいよ」と言われてしまったの。
 そんなこと、私もわかっているのよ。でも、調べてみないとどんな人か分からないでしょ。もし、同和地区の人だったら、私はよくても・・・・・親戚が何て言うか分からないし・・・・。息子は分かってもきっと「結婚する」って言い切ると思うの。息子の話を聞いていると、相手はとっても素直ないい人みたいで・・・・でも、やっぱり、相手の女性のことを調べてみた方がいいかなあ。

Aさん 無関心な人
Bさん 迷っている人
Cさん 人権侵害をしようとしている人
Dさん 関わりたくないと思っている人
Eさん 注意しようとしている人

 Aさんは、「私には関係ないこと」というように会話に参加しないで本を読んでいます。こんな無関心でよいでしょうか。数年前、熊本県人権子ども集会で、高校生が部落差別と闘っていることを発表しました。「あそこって部落よね。」という友達の発言を両親や担任の先生と話し合い、当人だけでなく他の親しい友達にも自分が差別と闘う生き方をしていることを話しました。すると、友達は、「あなたがどうだと言うことは関係なか。私たちは友達よ。」と言ったそうです。高校生は、「関係なかではない。部落差別をする側に立つのではなく差別をなくす側に立って欲しい。共に差別をなくす仲間になって欲しい」と差別をなくす仲間を一人でも多く増やしていきたいと熱い思いを訴えました。
 「部落差別は関係なか」ではないのです。私たち一人ひとりに関係があります。皆さんの家族のどなたかの結婚話がでたとき、事例のようなことが起きないとも限りません。事例のような人権侵害を起こさせないためにも部落差別を始めあらゆる差別を他人事として受け止めるのではなく自分のこととして受け止め、みんなが幸せに暮らせる世の中になる努力を続けましょう。
 Bさんは、「そんなことおかしいわよ。人権侵害よ」とCさんに伝えようかどうしようかと迷っています。傍観者の一人です。人権侵害を傍観していては差別はなくなりません。してはいけないことはしてはいけないとはっきり言うことが大切だと思います。
 Cさんは、いわゆる身元調査をすることが人権侵害だと言うことを自覚していないようです。なぜ、結婚相手が同和地区の人だったらいけないのでしょうか。人は誰でも差別を受けたくありません。それで、自分は差別を受ける側になりたくない、自分の子どもには、差別を受けさせたくない。自分の子が部落出身者と結婚したら子も部落出身者と見なされ、差別を受ける不幸に見舞われる。そんなことは何としても避けなければという我が子への親の愛情が結婚差別となって表現されているのです。同和地区の人と親戚になれば、自分たちまでもが部落出身者であると見なされかねないという「みなされる」ことへの恐れがあるのです。自分自身が同和地区の人々に対する差別意識があることです。「みなされること」への恐れそのものが差別であることを説いていくことです。
 Dさんも、できるならこんなことには関わりたくないと思っているようです。Dさんも傍観者です。傍観していることはCさんの差別心をそのままにしておくことで人権問題の解決にはならないことを説いていきたいと思います。
 Eさんは、そんな考えはおかしい、人権侵害だと注意しようとしています。人権侵害だとCさんを諭すことはとても大事なことです。諭してCさんに正しく理解してもらわねばなりません。ですから、身元調査をすることは人権侵害であることを丁寧に話して欲しいと思います。
 終わりに論語の言葉を引用して話を終わります。
 皆さんご存じのように論語は、孔子の言葉を門弟たちがまとめたものですね。その門弟の一人、子貢と孔子の問答があります。衛霊公第十五412
   子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
   子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
があります。
 口語訳は
 子貢が、「私が、先生から教えられた、たった一文字、その文字を大切に生きれば、人間として誤らずに生を全うできる、こういう字があったらお教えください。」
 そこで、孔子は、「子貢よ、それは恕という字だよ。常に相手の立場に立って、ものを考えようとする優しさと思いやりのことを言うんだ」と。
 しかし、子貢がよく分からないようすだったので、「そうだな。自分がいやなことは人にしてはならない!」とおっしゃったと解説にはあります。
 「恕」とは、相手の身になって、思い・語り・行動することだそうです。
皆さん、声に出して一緒に読んでみましょうか。
   子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
   子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
 ありがとうございました。
 恕の精神、つまり優しさを常に持ち続けたいものです。
 長時間のご静聴ありがとうございました。